雨の高野川
Fujifilm X100F f8 1/200 ISO1250

週末、野暮用があって京都に帰る。合間を縫って、重要文化財を傷つけるような◯国人観光客もここまでは来ないと思われる比叡山の麓、八瀬を久し振りに訪れることにした。観光客が殺到しても困るが、このブログを読んで八瀬へ行こうと思う観光客はいないと思うので八瀬について少し書いてみる。

八瀬はその昔「矢背」だった。

八瀬天満宮の灯篭
Fujifilm X100F f2.8 1/280 ISO1600

645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我馬子・入鹿親子を成敗し、中大兄皇子は第39代天智天皇となる。672年、天智天皇の皇太子である大友皇子と皇太弟である大海人皇子が皇位継承を争ったのが壬申の乱。その際に背中に矢を受けた大海人皇子がこの地の人々に手厚く匿われ、傷を癒したことから「矢背」と呼ばれるようになった。大海人皇子が後に天武天皇となり、矢背の人々は御所に上がって天皇のお世話をする特別な存在となり、それ以降、「八瀬童子」と呼ばれ今日に至る。

八瀬天満宮
Fujifilm X100F f5.6 1/240 ISO1600 

傷を癒すのに活躍したのが「窯風呂」である。風呂は今でこそお湯にドボンと浸かるが、風呂は「室」が転じたといわれるように、昔はサウナのような蒸し風呂だった。薪を焚いて熱したところに水を掛けて発生する水蒸気に当たる。薪を焚く際によもぎなど薬草を添えるとアロマセラピーにもなる。薪を焚いた熱い地面に敷く布を風呂敷という。水蒸気が地肌に熱過ぎるときに羽織る布を湯帷子(ゆかたびら)といい浴衣の原型となった。

Fujifilm X100F f2.8 1/1250 ISO1600

時代は下って1336年、足利尊氏に都を追われた後醍醐天皇を御輿に乗せて比叡山を超えて近江に逃したのも八瀬童子であり、八瀬天満宮の裏の険しい山道の途中に後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)跡地がある。八瀬の人々は後醍醐天皇とそれ以降の天皇の綸旨(りんじ=天皇の公文書)により、年貢や荷役を免除されることになり、それは驚くことに1945年まで続いたそうだ。

後醍醐天皇の行在所
Fujifilm X100F f2.8 1/90 ISO3200

租税免除を江戸幕府も認めたことに感謝する赦免地踊り(しゃめんちおどり)が今でも10月に奉納される。2004年、京都御所でその踊りを見た美智子皇后陛下は次のような御歌をお詠みになっている。

 大君の 御幸祝ふと 八瀬童子
  踊りくれたり 月若き夜に

歴代天皇の即位のとき、そして葬儀のとき、八瀬童子は天皇に近いところで参列し、葬儀では棺を担ぐことが慣わしであった。明治天皇のときも大正天皇のときもそうしてきた。昭和天皇の大喪の礼もそのつもりだったが、警備の関係や八瀬童子自身の高齢化などを理由に直接、棺を担ぐことはなくなった。それでも、棺を轜車(じしゃ)=霊柩車に移す際の補助など、棺の近くに寄り添い参列したそうである。

雨に煙る八瀬の里  Pixel 7

それにしても、7世紀、14世紀の出来事が今でも大切に継承されている京都、そして日本という国はすごい。この歴史や文化や伝統を我々は大切に守って後世に伝えなければならない。