
夜通し東名~名神を走って関ケ原ICで降りる。国道21号線に出て東に向かうとすぐにガソリンスタンドがあり、その隣に「徳川家康最初陣地」の大きな縦看板がある。その脇の階段を上がったところが、1600年、天下分け目の関ケ原の合戦の際に徳川家康が最初に陣を張った地点で、山というより小高い丘だが、「桃配山」(ももくばりやま)と呼ばれている。

しかし、ここに陣を張ったのは徳川家康が最初ではない。672年、壬申の乱で大海人皇子がここに陣を張っている。その際に、地元の村人が差し入れてくれた桃を臣下に配り、士気を高め、大友皇子に勝利し、後に天武天皇(第40代)として即位する。だから「桃配山」なのである。今の分類では正確には「山桃」のようだが、その当時は中に大きな種のある実を桃と総称していたようだ。伊耶那岐大神が黄泉の国から逃げ帰るときに桃を妖怪に投げつけて窮地を脱したり、桃太郎が鬼を退治したり、桃には古来より不思議な力があると信じられてきた。
徳川家康が1000年近くも前の故事を知っていて、その勝利にあやかろうとしたのは、それだけ我々の先人たちは歴史や伝統を大切に伝え継承してきた証左であろう。

国道21号線を米原方面に行くと不破関史料館があり、その裏手にある展望スポットから見える「自害峯の三本杉」を目指して薄暗い山に入っていく。大海人皇子に敗れた大友皇子は、琵琶湖畔の瀬田で自害し、その首がここまで運ばれて埋葬され、目印に三本の杉が植えられたという伝承。三本の杉の一本は数年前に枯れて切られてしまったそうだ。

諸説あろうが、実は自害せずに皇女十市と房総半島の俵田まで逃れ命尽き、十市はさらに山奥に進み筒森で命尽きた。それぞれの地に白山神社と筒森神社が鎮座している。

壬申の乱は、言うまでもなく、天智天皇(第38代)の皇太弟である大海人皇子と皇太子である大友皇子の皇位継承争いである。そして、皇女十市は大海人皇子と額田王(ぬかたのおおきみ)の娘である。つまり、十市にとったら、壬申の乱は、夫と父の争いということになる。

額田王といえば万葉集で有名な「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」の作者である。天智天皇が弟である大海人皇子の妃 額田王を権力で以て自分の妃にしてしまった。当時の愛情表現である「袖を振る」ことで今でも愛していることを告げようとする大海人皇子に、額田王がそんなに袖を振っていたら誰かに見られちゃいますよ〜と詠み、大海人皇子は「紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」と返歌を贈った。
さらにややこしいのは、大海人皇子は天智天皇の皇女(娘)である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)を妃とした。壬申の乱は鸕野讃良皇女にとっては、夫と異母弟の争いである。大海人皇子が天武天皇に即位し、鸕野讃良皇女は皇后となる。天武天皇の崩御後、草壁皇子が成長するまでのつなぎとして自ら即位し持統天皇(第41代)となるが、持統天皇の御代に「日本」という国名と「天皇」という称号が使われるようになり、大宝律令を整えるなど、つなぎというにはその業績はあまりに大きい。
※大友皇子は日本書紀では即位した記録はないが、それは編纂した舎人親王が父である天武天皇が現役の天皇から皇位を簒奪したような印象にならないよう省略したのであって、天智天皇崩御の後、即位していたという説もある。明治3(1870)に、弘文天皇と諡号され、第39代天皇に即位したと見なされてる。
参考:
笠原英彦 『歴代天皇総覧-皇位はどう継承されたか』 中公新書
竹田恒泰 『古事記完全講義』 学研
『天皇の国史」 PHP