最近なぜか一週間が早く感じられる。もうTGIF金曜日である。今日はいつもと違う帰りの地上乗換駅で、脚に補助具を装着した二十歳前後の若い女性がビニール傘を片手に歩道沿いの柵にしがみつくように歩こうとして歩けずに立ち止まっていた。少し気にはなったが、こんなところに一人でいるということは歩けないわけではないのだろうと一度は通り過ぎたが、振り向いて見るとやはり立ち尽くしている。こんなおっさんに声を掛けられても迷惑かなと思いつつ、勇気を出して「大丈夫ですか?なにかお手伝いしましょうか?」と声を掛けてみた。その方は「ありがとうございます。じゃあ手を貸していただけますか」と小さな声で言った。フォークダンスを踊るときのように肘を曲げて手の平を上にして差し出したぼくの左手をギュッと握ってゆっくりゆっくり歩き出した。

次の改札まで50mくらいだろうか、普通に歩けば1分もかからない距離を彼女は少しずつ、数センチの歩幅で歩く。ぼくもその速度に合わせて、不謹慎なたとえをするなら売国奴野党の牛歩戦術のようにゆっくりゆっくり進む。休憩のために一回立ち止まった。「体重をかけてすいません」と言う彼女に「大丈夫ですよ、軽いかるい」と言ってみたものの、ぼくの左の上腕二頭筋はかなり限界に近付いていた。しかし、弱音を吐かずに歩む彼女を前にぼくがgive upするわけにはいかない。

ほぼ毎日、腕立て伏せをするように心掛けているが、それがなければぼくの上腕二頭筋はかなり早い段階で音を上げて逃げ出していただろう。自転車乗りは太腿が注目されがちだが、実は上半身も大事である。両腕でしっかりハンドルを握り、とくに登りは手前に強く引くことによって脚はペダルを最大パワーで踏み込むことができるようになる。極端に言うと両手放しでは脚に力は全く入らない。

一緒に歩むこと20分、いや30分、時計を見ていないのでわからないが、改札に到着。駅に着いたらいつも駅員さんがサポートしてくれるそうなので、改札の駅員さんに声を掛けて後を託した。二度も振り向いて頭を下げる彼女に手を振ってぼくは別の路線に向かった。電車を降りた後は一人で自宅まで帰れるのだろうか、家族が迎えに来ているのだろうか、と心配ではあったが自宅までついて行くわけにはいくまい。

なにか困り事を抱えている人に声を掛けるにはけっこう勇気が要る。なにかと物騒な世の中になり警戒されるかもしれない。物騒な社会状況の中で躊躇なくぼくの左手をしっかりと握り締め、自分の体重をあずけてくれた彼女に逆にぼくが心から感謝したい。

障害者の自立という点で以前聴いたことがある。自立とは依存先を増やすことである。一見、矛盾しているようだが、頼る人が一人しかいなければ、いつも同じ人に頼るしかなく、その人から自立することができなくなる。その人の機嫌を損ねれば自分はなにもできなくなってしまう。しかし、頼る先がたくさんあれば、一人ひとりへの依存度合いは軽くなり、たとえ一人が機嫌を損ねても他に頼れば良いのであり、その人から自立することができるのである。障害のある人が困っているときに、ほんの少しの勇気を出して、一瞬だけでも依存先のひとつになることができれば、それは自立を妨げるのではなく、自立する機会を増やしていることになるのだ。

約18年前、利用客が多い夕刻の地下鉄「表参道」のホームで白杖の人を見かけた。慣れた人は目が見えているのではないかと思うほどテキパキと歩いているが、その人は明らかに不慣れで危なっかしい様子だった。勇気を出して声を掛けると、ホームの柱の陰から人が現れて「大丈夫です、今、訓練中なんです」と言った。ぼくはいい人ぶってなんと余計なことをしてしまったのかと恥ずかしくなって顔が赤くなり、そそくさとその場を立ち去ろうとした。

そのとき、背中で「良かったね」という声が聞こえた。なにが良かったのかそのときはわからなかったが、電車に乗って少し落ち着いたところで考えた。「(訓練中はトレーナーがついているけど、もうすぐ一人で外出しないといけない、でも困っていたらきっと親切な人が今みたいに声を掛けて助けてくれるよ)良かったね」ということではないだろうか。ぼくは余計なことをしたのではなく、白杖の人が自立する小さなお手伝いをしたのかもしれない。

物騒な世の中である。嫌なことが多い世の中である。しかし、いや、だからこそ、良心をもった者どうし助け合いたいと切に願う。 

Thank God, It’s Friday !!

筋肉は正義である