行田市のさきたま史跡の博物館で金錯銘鉄剣を見に来たついでに、本庄市にまで脚を伸ばして塙保己一の生家と記念館を訪れた。戦前は「修身」の授業でみんな習っていたようだが、戦後の反日自虐史観的な教科書には載っていないのだろうか。外国の怪しい英雄を紹介する前に、我が国のスーパースターを全国民に知らしめるべきであろう。

塙保己一の生家

1746年5月5日に今の本庄市保木間に生まれる。7歳で視力を失い、15歳で江戸の当道座に入門する。当道座とは、視力を失った人々の道場みたいなものであろう。按摩や鍼灸、筝や琴を習い、生きていくための術を身につける。しかし、保己一は不器用でそれらの術がなかなか身につかない。その一方で、読んで聞かされる内容はすべて正確に暗記してしまうずば抜けた記憶力の持ち主であった。

十七条憲法 聖徳太子 検校保己一 の文字が見える(レプリカ版木)

その記憶力を活かし国学者になった保己一は1793年、幕府の許可を得て和学講談所という教育・研究所を設立。「各地に散らばっている貴重な一巻、二巻といった書を取り集め、後の世の国学びする人のよき助けとなるよう」と34歳の1799年から40年かけて、寺社や大名や公家などがもつ貴重な書物を筆写あるいは譲り受け、それを山桜の版木に彫り込んで「群書従類」として編纂した。神祗部や帝王部、和歌部、物語部など、25の分野に分類され版木の数は17,244枚に上り、和綴じ本にして666冊になる。戦争中を除き、定期的に製本して学術に供し、今でも注文に応じて有料で摺って販売してくれる。

必要に応じてその都度書き写すと書き損じが生じるが、一度版木にしてしまえば、毎回、同じ正確な内容で何度も再生産することができる。この版木の文字数が、今でも我々が作文に使う20文字×20行の400字詰め原稿用紙の元になっている。

1861年、欧米列強が小笠原諸島の領有を主張しようとしたとき、日本への帰属を証明する歴史資料を保己一が保管してくれていた為、即座に欧米列強を論破できた。1885年に医師開業試験に合格して日本人女性初の医者となった荻野吟子は、当時、女性が医師開業医試験を受けることができなかったが、保己一が保存してくれていた833年の「令義解」(りょうのぎげ)にすでに女性が医者に該当する活動をしている記録が残っていたことにより、医者になることができた。

1821年に76歳で亡くなった保己一を、1937年に「三重苦」のヘレン・ケラーが遠路遥々訪ねてきた。世界中の障害者に希望の明かりを灯したヘレン・ケラーは保己一の小さな像を手で触り、「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされた育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います」と述べている。

ヘレン・ケラーが触れた保己一像のレプリカ

数万冊の古文献を記憶していた保己一は、古事記の内容を太安万侶に口述した稗田阿礼の再来のようであるが、「塙は人にあらず、書物の精が生まれ変わったのだ」と松平定信が評している。記念館にある家系図を辿ると、昼間は朝廷に、夜は冥界の閻魔大王に仕えた小野篁に辿り着く。もしかして、保己一も篁のように、今の科学では説明がつかない不思議な魔力をもっていたのかもしれない。

参考
塙保己一記念館(本庄市)
塙保己一資料館(温故学会)

投稿者

Seiji

三連勝 3RENSHO に四半期乗り、COLNAGO CLX3.0を経由して、COLNAGO C59に辿り着きました。そして最近、一度は手放した三連勝を再び手に入れました。C59と三連勝であちこち走る様子をお伝えします。

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