相変わらずCOLNAGO C59に乗れてないのは残念であるが、先日、京都に帰る機会があり、新幹線で東京に戻る前の空いた時間で後小松天皇が埋葬されている深草北陵を訪ねてみた。

出町から望む大文字

14世紀の中頃、鎌倉時代と室町時代の間(あるいは室町時代のはじめ)に大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)のふたりの天皇が存在する南北朝時代があった。南朝を吉野朝ともいい、これは後醍醐天皇が奈良の吉野に逃れたからであるが、ある日突然、後醍醐天皇が吉野で南朝を宣言したわけではなく、それまでに皇位継承争いや武家の勢力争いなど、複雑な伏線が絡み合っている。

今出川通りから望む夕暮れの大文字

鎌倉時代は世界最強のモンゴル軍を2度も撃退したように、源氏を頂点とする武家が強く、天皇の政治的実権は弱い時代であり、皇位継承争いが続いた。第88代の後嵯峨天皇(在位1242-1246)は第2皇子に譲位し、第89代の後深草天皇(在位1246-1259)が即位する。後深草天皇は後嵯峨天皇の第3皇子に譲位し第90代の亀山天皇(在位1259-1274)が即位する。その後、後深草天皇(兄)と亀山天皇(弟)の間で、それぞれが可愛い我が子を即位させたくて皇位継承争いが起こる。幕府が間に入り、後深草天皇と亀山天皇の皇統が交互に即位(両統迭立)することを条件に亀山天皇の皇子が第91代の後宇多天皇(在位1274-1287)として即位する。それぞれの居所にちなんで、後深草天皇の皇統を「持明院統」、亀山天皇の皇統を「大覚寺統」と呼ぶようになった。

深草北陵

1318年に即位した第96代の後醍醐天皇(大覚寺統)(在位1318-1339)は両統の対立を終わらせ、平安時代のように天皇が強い実権をもつ親政を始めようとして、倒幕を企むが事前に発覚して隠岐に流される。楠木正成が挙兵し、鎌倉幕府に不満をもつ勢力が呼応するなか、1333年、後醍醐天皇が隠岐から脱出。有力武将の足利尊氏が鎌倉幕府ではなく、後醍醐天皇につき、新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は約150年で幕を降ろした。

後醍醐天皇は京都に入り、建武の新政(親政)を始めるが、足利尊氏が反旗を翻し対立することになり、湊川の戦いで楠木正成や新田義貞を破り京都に攻め込む。後醍醐天皇は京都から吉野に逃れる(1336年)。ここで、後醍醐天皇=大覚寺統=吉野=南朝という構図が生まれる。後醍醐天皇は1339年に第97代の後村上天皇(在位1339-1368)に譲位し、その後まもなく崩御した。

深草北陵

その一方で、両統迭立にもかかわらず、後醍醐天皇が持明院統に皇位を譲らず、在位し続けたので、しびれを切らしたのか、1331年、鎌倉幕府の後押しで持明院統の光厳天皇が即位し、後醍醐天皇(大覚寺統、吉野の南朝)と、光厳天皇(京都の北朝第1代天皇)(在位1331-1333)が存在する「南北朝時代」となる。光厳天皇は弟、光明天皇(北朝第2代、在位1336-1348)に譲位し(光厳天皇の在位~1333と光明天皇の在位1336~の間にある3年については調べがつかなかった)、さらに光明天皇は光厳天皇の皇子、崇光天皇(北朝第3代、在位1348-1351)に譲位する。

深草北陵

北朝第4代の後光厳天皇(在位1352-1371)、北朝第5代の後円融天皇(在位1371-1382)を経て、北朝第6代の後小松天皇が、足利第3代将軍義満の仲介により、再び両統迭立を条件に第99代の後亀山天皇から三種の神器を譲り受け、第100代として即位する(在位1382-1412)。足利将軍が北朝(持明院統)側についたため、その後、両統迭立することなく、北朝(持明院統)で皇位が継承されて今日に至るとされる。

ついでにの仁明天皇の深草陵にも寄ってみた

1911(明治44)年の帝国議会では、桂内閣を攻撃する材料として犬養毅の野党が南北朝正閏問題を国会に持ち出し、南朝が正統であるとされた。それには水戸光圀が編纂を命じた「大日本史」がもともと三種の神器を継承していたのは南朝であり南朝を正統としている影響が大きいようだが、今上陛下が北朝なのに正面切って南朝が正統であり、北朝である今上陛下は正統ではないという結論はあまりに大胆ではないか。しかし、そこに明治天皇がお怒りになったという記録は見当たらない。さらに不思議なのは、鎌倉時代でも江戸時代でも、天皇は京都におられたにもかかわらず、明治維新で大政奉還され、天皇中心の中央集権国家となったのに、なぜ、わざわざ天皇は1000年以上続く京都から江戸に引っ越す必要があったのだろうか。

鴨川はその水面に何を映してきたのだろうか

そこで囁かれるのが明治維新後、明治天皇(孝明天皇の第2皇子)が、南朝側が代々匿ってきた正統な皇位継承者である大室寅之祐なる人物にすり替わっているという説である。テレビや新聞やインターネットがない時代、孝明天皇の第2皇子を見たことがない江戸の人々なら大室寅之祐にすり替わったところで誰も気が付かないし、明治天皇も南朝が正統と言われても怒る必要はない。

大室寅之祐に触れたなら、伊藤博文や大久保利通、西郷隆盛、勝海舟、横井小楠、岩倉具視、桂小五郎、等々、明治維新前後の主要人物が50人近く写っているといわれるフルベッキ群像写真についても触れないわけにはいかないが長くなるので詳細は割愛する。フルベッキも謎が多い人物だが、オランダ生まれの宣教師として、来日し、明治学院理事・教授も務め、1898年、赤坂で亡くなり、青山霊園に埋葬された。

後小松天皇に話を戻す。子供アニメで人気の一休さんは後小松天皇の落胤という説がある。「母上様」は北朝である後小松天皇と対立する南朝側の藤原家出身の伊予の局であるため、一休さんは皇位継承者と見なされなかったのか安国寺に預けられた。一休さんが反体制勢力に利用されないように監視していたのが蜷川新右衛門である。一休さんと一緒に修行している哲斉は後醍醐天皇側について湊川の戦いで足利尊氏に倒された新田家出身であり、足利将軍への復讐のチャンスを狙って、夜になるとお寺の裏の林の中で剣術を磨いている。こんな複雑な背景がある「一休さん」は子供アニメと侮れない。

いずれにせよ、南朝(大覚寺統)であれ北朝(持明院統)であれ、欧州のように別の王朝が争っていたのではなく、同じ父親(後嵯峨天皇)をもつ兄(後深草天皇)弟(亀山天皇)から続く皇統であり、万世一系には変わりないではないかと歴史ロマンに想いを馳せながらウトウトしていたら、終点東京駅のアナウンスに起こされた。

参考
「歴代天皇総覧-皇位はどう継承されたか」 笠原英彦 中公新書
「日本国記」 百田尚樹 幻冬舎
「幕末維新の暗号-群像写真はなぜ撮られ、そして抹殺されたのか」 加治将一 祥伝社