本当は今日(1月3日)自転車の初乗りの予定だったが、天気予報に反した曇天にテンションが上がらず出撃しなかったら小雨までパラついてきた。昨日は快晴で風もない暖かい絶好の自転車日和だったが、今年も天気予報はちぐはぐのようだ。お天道様に逆らってもしょうがないので、ゆっくり音楽を聴きながら何十年振りかに京都で迎えた正月について記しておこう。
年の瀬の22:00頃に都内から出発して、途中何度かトイレ休憩をとったり、SAでうどんを食べたりして朝の5:30頃に平安神宮に到着した。どこかで朝御飯が食べられないかと検索すると、大徳寺の近くで6:30から和の朝御飯だけをやっている「朝ごはん ふく」を見つけたので行ってみた。まだ薄暗いなか、店の前を掃き清めていたご主人が本来は予約のみだけど二人ならと迎えてくださった。一保堂の炒り番茶の芳ばしい香りが眠気を覚まし、超絶美味な出汁で夜通し走ってきた頭が覚醒した。こんな素敵なお店がさりげなく迎えてくださるのが京都の良さか。日本の歴史文化に敬意を払わない〇国人観光客が殺到しても困るが、このブログを読んで行く観光客はいないだろう。
正月が迎えられるように実家の片付けを済ませた後、買い出しや散策に古都を徘徊する。以下、一日で回ったわけではなく、且つ順不同である。
四条河原町の髙島屋のデパ地下に食材等の買い物に行く。寺町二条の一保堂にも立ち寄ろうと思っていたが髙島屋にも入っていたのでついでに「芳泉」と「嘉木」を買って帰る。
祇園のかづら清老舗で椿油を買って、まだ混雑前の八坂神社に詣でる。八坂神社は素戔嗚尊とその妻である櫛稲田姫を祭神とし、平安遷都以前からこの地に鎮座すると言われている。明治の神仏分離令以前は祇園社と呼ばれ、ギオンがシオンに通じるという説もある。877(元慶元)年、疫病の流行に際して祇園社で祈祷すると疫病が止んだことが疫病退治を願う祇園祭の起源である。
最近では鴨川デルタと言うようだが、ぼくの子供の頃はそのような呼び名はなかったような気がする。では、どのように呼んでいたかと訊かれてもとくに記憶にない。加茂大橋からぐるっと見渡すと、大文字山と比叡山が見えて、賀茂川と高野川の背景に北の山々が見える景色が昔から好きでいつも橋の上で立ち止まるが、ぼくの子供の頃は飛び石はなかった。京都府のホームページによると1980年代前半に川床の安定化と親水機能として設置されたようだ。景観的にはどうなんだろうとぼくは思うが、今となっては鴨川の風景の一部になってしまい、夏に子供たちが楽しそうに遊んでいるのを見ると良しとするべきか。
この辺は昔々は京の町外れであり、町を出るから出町と呼ばれ、大原を抜けて若狭に至る鯖街道の起点終点である。川の東側は柳が多く柳之辻と呼ばれていた。叡電が駅を造る際に合わせて出町柳と呼ばれるようになり、駅名も出町柳となったらしい。若い頃は三連勝で国道367号線を走って、大原を抜けて琵琶湖に出たり、百井峠から鞍馬に抜けたものだ。出町でふたばの豆餅、岡田商会ですき焼き用の肉と焼き豚を買った。
下鴨神社の糺の森にある雑太社(さわたしゃ)で近年低迷を続ける贔屓チームの復活を祈願する。日本のラグビーの歴史は諸説あるようだが、1863(文久3)年に横浜の外国人居留地でイギリス人船員がプレーしたのが最初とされる。1899(明治32)年に慶應大学のイギリス人英語教師が学生に教えてラグビー部が創設された。1910(明治43)年に慶應の学生が京都大学(旧制三校)の学生にこの地でラグビーを伝えたことで関西におけるラグビーの発祥の地とされ、京都大学にラグビー部が創設される。そして1911年に同志社大学で我が国における3番目のラグビー部が創設された。
相国寺を抜けて、室町幕府の中心地跡に建つ室町小学校の周辺を散歩する。妙顕寺と妙覚寺、こんな町中にこんな大きなお寺があるのか、というのが京都である。今年は冷え込むのが遅かったせいか、所々で紅葉が残っている。堀川通から一本東側に小川通があり、今は水は流れていないが、昔は綺麗な水が流れていたようで、裏千家(不審庵)、表千家(今日庵)、武者小路千家(官休庵)が集まっている。今でも謎が残るが豊臣秀吉の怒りを買って自害させられた千利休の息子はしばらく鳴りを潜め、ほとぼりが冷めた頃に孫にあたる千宗旦が茶の湯の道を再興し、その息子たち4人のうち3人がそれぞれの千家を興した。まるで今野4兄弟のうち3人がCHERUBIMと三連勝とMIYUKIを興したようなものか(笑)。
烏丸通の東に移動し、桓武天皇が平安遷都の際に建立した御霊神社に詣で、水田玉雲堂の唐板煎餅を求める。歩き疲れたのでVIGOREが2台吊ってあるLIN COFFEEでちょっと休憩。自転車乗りのマスターが「輪行」にかけて命名したようだ。自転車のシンプルなイラストがお洒落なドリップ珈琲を買って帰る。
大晦日は八瀬天満宮に詣でた。八瀬童子と思われる方々が白装束を着て新年を迎える準備をされていた。写真をバシャバシャ撮る雰囲気ではなかったので少し離れたところでしばらく眺めて、山中の後醍醐天皇の行在所に登る。細い道でつながる八瀬の村をしばらく歩き、窯風呂を見て車に戻ると待っていたかのように時雨れてきたので洛中に戻る。あ〜っ!しまった… また道真公の腰掛岩の写真を撮るのを忘れた (T_T)
見る価値がなくなって久しい紅白歌合戦は当然見ることなく、ぼくのような凡人の煩悩は祓った方が良いと思いつつ除夜の鐘を聴くことなく早く床に就いた。いよいよ元旦の朝は暗いうちから下鴨神社に初詣に上がり、我が国が再び豊かにに強くなることを祈願した。