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かなり以前に小さな鉢で都忘れをいただいたが、植え替えることもせず、放置しているといつのまにか自然消滅してしまっていたので、あらたに植えてみた。

「都忘れ」なんとも切なく、しかし、美しい響きであろうか。

後鳥羽上皇の第二皇子である土御門天皇(第83代 在位1198 – 1210)から譲位を受けた第三皇子の順徳天皇(第84代 在位1210 – 1221)は、北条家から実権を取り戻そうと挙兵した後鳥羽上皇と共に敗れ、佐渡に流された(承久の乱)。彼の地でこの花を見て、その可憐な美しさに都を忘れられるほど癒されたと伝えられている。あるいは、小菊を愛でた後鳥羽上皇に想いを馳せたとも。

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1242年に崩御し、火葬は彼の地で執り行われ、京都の大原陵に葬られた。「都忘れ」とはネーミングの妙であるが、逆にそれだけ都を強く想っていたことの証左であろう。

佐渡歴史伝説館によると以下の御製をお詠みになっている。

いかにして契りおきけむ白菊を
都忘れと名づくるも憂し

本来は紫ではなく白い花だったのか…

後鳥羽上皇は隠岐に流され、挙兵に反対したという土御門上皇は御咎めなしであったが、父と弟が流され、自分だけ都に残るのは忍びなく、自ら土佐に遷られた。隠岐・佐渡・土佐と別れても、文による連絡は許されていたらしい。

親子で藤原定家に和歌を習い、後鳥羽上皇は新古今和歌集の編纂を命じ、順徳上皇の御製は定家が小倉百人一首の100番目として選定している。承久の乱の前と思われる御製は、軒の端に生える雑草(しのぶ草)を見て往時を懐かしむ想いが詠われている。定家としても、順徳天皇の無念を後世に遺したかったのであろう。

百敷やふるき軒端(のきば)の忍ぶにも
猶あまりある昔なりけり

藤原定家が百人一首の編纂作業をしていたと思われる一条京極第跡(京極小学校)

笠原英彦 『歴代天皇総覧』 中公新書 P205 – 212
竹田恒泰 『天皇の国史』 PHP研究所 P319 – 323
公益社団法人国民文化研究会 『歴代天皇の御製集』 至知出版社 P150 – 153
百人一首物語 学研 P651
佐渡歴史伝説館 順徳上皇の生涯

※ 天皇と上皇は譲位したタイミングでわかりやすいが、出家して~院になるタイミングはよくわからない。晩年は後鳥羽院や順徳院と表記すべきであろうが、上皇と表記した。

投稿者

Seiji

三連勝 3RENSHO に四半期乗り、COLNAGO CLX3.0を経由して、COLNAGO C59に辿り着きました。そして最近、一度は手放した三連勝を再び手に入れました。C59と三連勝であちこち走る様子をお伝えします。

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