三連休の中日、ふと思い立って埼玉県行田市のさきたま古墳群、なかでも稲荷山古墳とその出土品である金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が見たくなって朝の7時に家を出た。県の名前としては「さいたま」だが、遺跡としては「さきたま」なのが不思議であるが、「ダさいたま」と馬鹿にするやつらはこの古墳の前に跪くべきであろう。

5世紀後半にできた約120mの前方後円墳から1968年に出土した錆びた鉄剣は、当時、多くある副葬品のひとつであり、とくに注目されることはなかったが、1978年に保存のためにあらためてX線を当てて調査すると、両面に計115文字の金象嵌(きんぞうがん)が見つかった。金象嵌とは彫った溝に金を流し込む高度な技法である。辛亥(しんがい・かのとい)年7月に記す、この剣の持ち主であるヲワケという人物が警備隊長として「獲加多支鹵大王」ワカタケル大王に仕え、天下を治める補佐をした、等が彫られている。
辛亥とは60年に一度巡ってくる暦であり、孫文が清を倒して中華民国を樹立した辛亥革命は1911年の辛亥の年であり、その1440年前(60×24)の471年と考えられる。古事記では雄略天皇の名は大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)、日本書紀では大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)と記されている。雄略天皇(第21代)の在位( 456~479)と考えると、この鉄剣の持ち主が仕えたのは雄略天皇に間違いないであろう。
同じ時期に造られた熊本県の江田船山古墳から出土した刀にも「獲加多支鹵大王」の文字が見られることから、大和朝廷の支配がすでに広範囲に及んでいたことがわかる。雄略天皇は自ら皇位を継承するために、残虐に多くの皇族を殺害したようだが、大和朝廷の中央集権化を強力に進めたとも言えよう。そして何よりも、文字の記録に残されたことにより、神話から歴史への継続性、空白と言われる5世紀の実存性を物語る立役者になった功績は大きい。

実は、本日の第一の目的であった金錯銘鉄剣は見ることができなかった。「稲荷山古墳 鉄剣」で検索してヒットするさきたま史跡の博物館の該当ページには「展示ケース改修のため、当面の間、複製品の展示となっております」とある。複製品でもいいから見てみたいと思って行ったのだが、なんと!! 2月20~27日、博物館を休館にして、修復を終えた展示ケースで本物を再公開するための準備をするらしい。そんなことはどこにも書いてないと思ったが、博物館のトップページには書いてある。しかし、鉄剣の該当ページには書いていない。トップページを見なかった自分にも落ち度はあるが、鉄剣のページにその記載がないのは博物館の落ち度であろう。再公開されたらあらためて拝みに行こう。

かなりショックだったが、気持ちを入れ替えて、さらに車で1時間半の金鑚(かなさな)神社を訪れることにした。日本武尊(やまとたける)が東征の際に立ち寄り、倭姫命(やまとひめ)から授かった火鑽金(火打金=ひうちがね)を御霊代(みたましろ)として山中に納め、天照大御神と素戔嗚尊の二柱の神を祀ったことが始まりらしい。拝殿の後ろに本殿はなく、山そのものが御神体となっている。本殿がない神社は他に奈良の大神(おおみわ)神社と信州の諏訪大社が挙げられる。

想定外のガッカリもあったが、天長節(天皇誕生日)の前日として、大変有意義な一日だった。
参考:
竹田恒泰著「天皇の国史」P. 223-224
笠原英彦著「歴代天皇総覧」P. 51