言の葉の まことのみちを わけみれば
昔の人に あふここちせり
これは明治天皇の御製である。過去の神話や歴史書などの書物を繙けば、昔の人にお会いしているような心地がします、ということであろう。イギリスの有名な歴史家、E. H. カーは歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」であると述べている。また、同じくイギリスの歴史家、アーノルド・トインビーは「十二、十三歳までに、民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅びている」と論じているようだ。残念ながらトインビーの該当箇所を原本でも翻訳本でも読んだことはないが、複数の人が国や民族が滅びる要因としてトインビーに言及している。おそらく全20巻もある『歴史の研究』のなかで述べているのだろう。
我々日本人は戦後の占領軍のWGIP(War Guilt Information Program)により、日本が現存する最古の国であり、素晴らしい歴史と伝統と文化の国であることを学ぶ機会を奪われてきた。むしろ逆に日本は悪い国であるかのような反日自虐史観を教え込まれてきたのではないか。どうやらWGIPが見事に成功してしまっているようだ。戦前は普通に教えられていた我が国の成り立ちを多くの日本人は知らないし、知ろうともしない。そして、古事記に書かれているような神話を「そんなことは有り得ない」「嘘に決まってる」と一笑に付すのである。
トインビーの説が正しいなら、今、正に日本は「滅亡」に向けてまっしぐらである。
神話は、確かに今の科学や常識に照らし合わせると、必ずしも事実とは限らない。それは日本の神話だけではなく、ギリシア神話や聖書も然りである。神話には意味がないのか?有り得ないから知る必要もないのか?答えは否である。バーバラ・タックマンは『愚行の世界史―トロイからベトナムまで』のなかで、「過去の人間を現在の概念で裁くほど不公平なことはない」と引用している。神話を読み解くにあたり、最も大切なのは、今の科学や常識で有り得るかどうかではなく、「なるほど、昔の人はそのように思っていたのか」「なるほど、我々の祖先はそう願っていたのか」「なるほど、だからそんな決定をしたのか」と想いを馳せることである。
その一方で、神話には多くの事実が含まれている。神話はある日突然、誰かが思い付いてゼロから書き起こしたものではない。実際にあった出来事や経験に尾ひれはひれが付くこともあれば、針小棒大に語っている部分もあろうが、そこには事実が見え隠れする。天武天皇が編纂を命じた『古事記』(西暦712年)は記憶の天才・稗田阿礼(ひえだのあれ)が覚えていた神話や伝承などを、記録の天才・太安万侶(おおのやすまろ)が書き残したものである。
難しいのはどこまでが「神話」でどこからが「歴史」かという議論であろう。前述のカーは「歴史とは解釈のことです」と述べている。神話に隠された事実をいかに解釈するかがその民族の歴史であり、神話に書かれていることが事実かどうかではなく、昔の人がその神話を書き残したという事実が歴史なのだ。そして、とくに我が国においては、西尾幹二がいみじくも書き残しているように、「すべての歴史は広い意味での神話なのである。ことに古代においては歴史と神話のあいだに明確な境界は立てられない」のではないだろうか。
古事記によると、初代の神武天皇は137歳まだ生きたらしい。今の常識では有り得ない、だから神武天皇は存在しないと言う人がいる。今の常識で有り得ないことは即ち存在しなかったことになるのだろうか。ローマを建国した双子のロムレスとレムスは軍神マルスの子で狼に育てられたらしい。イエス・キリストは聖処女マリアから産まれたらしい。ブッタ(ガウタマ・シッダールタ)は母の脇腹から産まれた直後に7歩あるいて、天上天下唯我独尊と言ったらしい。今の科学と常識でそれらが有り得るかどうか議論することに意味があるだろうか。昔の人がそのように願っていた、そのように思っていた、という事実が大切なのである。
公益社団法人国民文化研究会 『歴代天皇の御製集』 至知出版社 P. 20
竹田恒泰 『古事記 完全講義』 学研 P. 37
E. H. カー 『歴史とは何か』 岩波新書 P. 40 P. 29
バーバラ・W・タックマン 『愚行の世界史』(上) 中公文庫 P. 18
西尾幹二 『国民の歴史』 産経新聞社 P. 120